千人もの人が愛すべき長所を持ちながら、嫌な感じを与え、千人もがそれ以下の才能しかないのに好感を与える。そのわけは、一方は「ありのままの自分でないもの」に見られようとし、他方は「見えるとおりの人間」だからである。
我々は時として自分の器以上の位や顕職に引き上げられることがあり、また生まれつき定められていたのとは別の新しい職に従事することも多い。こうした境遇には、すべてそれぞれにふさわしい顔があり、その顔は必ずしも我々の本来の顔にふさわしいとは限らない。
人がしばしば嫌な感じを与えようとすれば、それは顔と挙動を自分の境遇に調和させ、声の調子や言葉を自分の考えや気持ちに調和させることが、誰にも上手くできないためである。人はそれらの間の諧調を調子はずれでそぐわない何物かで乱してしまう。自分自身を忘れ、知らぬ間に自分から遠ざかる。ほとんどすべての人が、どこかでこの過ちに陥る。誰一人この種の快い調べを完全に聞き取るだけの良い耳を持たない。
結局我々は、自然からどんな利点もしくは不利な天を与えられているにせよ、自分の身分や境遇にふさわしい、顔、声、挙動、気持ちに即しているほど好感を与え、底から遠ざかるほど嫌な感じを与えるのである。