愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている。
事態を放置するか、あるいはこれに断固介入するか、それが問題だ。どちらが気高い生き方か、このまま心のうちに暴虐な運命が射掛ける石と矢をじっと耐えることか、それとも海のように押し寄せる苦難に武器をとって立ち向かい、敢然と戦ってこれに終止符を打つことか。
人の成すことには潮時というものがある。うまく満ち潮に乗れば成功するが、その機を逃すと一生の航海が不幸災厄ばかりの浅瀬につかまってしまう。【シェークスピア、ジュリアス・シーザーより】
誰の言葉にも耳をかたむけろ。誰のためにも口を開くな。
いま望んでいるものを手にして、何の得があろうか。それは夢、瞬間の出来事、泡のように消えてしまう束の間の喜びでしかない。一週間嘆くとわかっていて、一分間の快楽を買う人がいようか。あるいはおもちゃと引き換えに、永遠の喜びを売る人はいようか。甘さを求めて、ブドウ一粒のために、ブドウの樹を倒してしまう人は、はたしているだろうか。
いちばん賤しい者となり、いちばんひどい逆境に沈んでいる者は、常に望みを持ちなさい。怯えることはない。最上の幸福から零落することは悲しむべきだが、不運のどん底に沈むと、また浮かび上がって笑うことにもなる。
外観というものは、一番ひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾にあざむかれる。
悪事によって得たものは、悪事の報復を受ける。
人間の生活においても、ある種の潮流がある。満ち潮に乗れば、幸運に導かれる。無視をすれば、人生の旅は苦しみの浅瀬に漂うだけとなる。私たちはいま、そういう海に浮かんでいる。だから、その潮流に乗らなければならない。さもなければ、賭けているものをすべて失くすことになるのだ。