何ごともはじめは難しいということわざは、ある意味では真理かもしれないが、より一般的には何事もはじめは容易だ。最後の段階に登ることこそ一番難しく、これに登り得る人間は稀だと言える。
愚者と賢者はともに害がない。半分愚者、半分賢者だけが一番危険である。
青年は教えられるより、刺激されることを欲する。
何もかも独学で覚えたというのは、褒めるべきこととはいえず、むしろ非難すべきこと。
人間は内面から生きなければならない。芸術家は内面から制作に向かわなければならない。人間も芸術家も、たとえどのように振舞おうと自分の個性を打ち出してゆく他はない。そういう気持ちで元気いっぱい仕事にかかるならば、間違いなく彼は自分の生命の価値を自然から与えられ高邁(こうまい)さ、または優雅さを表出することとなる。
自分が自由だと称するのは、大変僭越なことです。なぜなら、それは同時に自分を制御する意志をも表明しているからです。誰にそれができるでしょう。友人たちに若い詩人たちに、私は次のように言いたい。君たちは、今は規範というものを一つも持っていない。それは君たちが自分で得なければならない。
最も重要なことを簡単に申しましょう。若い詩人は、生きて働き続けているものだけを、たとえそれがどんな形においてであれ、表現するように努めなさい。反対のための反対、悪口、ただ否定することしかできないものを、ことごとく退けてはなりません。ただの否定からは何も生まれてこないのですから。
常に時間はたっぷりある。うまく使いさえすれば。
なぜこのように悪口が絶えないのか。人々は他人のちょっとした功績でも認めると、自分の品位が下がるように思っているからだ。
お前の本当の腹底から出たものでなければ、人を心から動かすことは断じてできない。
愛する人の欠点を美点と思わない人間は、その人を愛しているのではない。
自分にできること、あるいは夢に思い描いていることは、すべて実行に移すことだ。大胆であれば、非凡な能力と不思議な力を発揮できる。
若くして求めれば、老いて豊かである。
自由も生活も、これを勝ち取ろうとする者は、日ごとに新しく闘い取らねばならない。
人間の魂は、つねに耕される田畑のようなものである。よその国から種を取り寄せ、それを選抜し、蒔くのに時をかける注意深い園芸家であるのは屈辱的なことであろうか。種子を手に入れ、選抜することが、そんなに早くできるものであろうか。
人間の最大の価値は、人間が外界の事情にできるだけ左右されず、外界をできるだけ左右するところにある。あらゆる階級を通じて、目立って気高い人は誰か。どんな長所を持っていても、常に心の平衡を失わない人だ。
情熱は欠陥であるか美徳であるか、そのいずれかだ。ただどちらにしても度を越しているだけだ。大きな情熱は望みのない病気だ。それを癒しうるはずのものが、かえってそれをすこぶる危険にする。
まだ日が暮れない。働くのだ、飽くことなく。そのうち誰も働くことのできない死が来るのだから。
蚕は紡ぎながらだんだん死に近づくとしても、糸を紡がずにはいられましょうか。